「分子ロボティクス」という耳慣れない言葉を聞いて,戸惑われた読者が多いことと思う.「分子ロボティクス」は,生物,物理,化学,計算機科学などの境界に存在する学際的なフロンティアで,いろいろなバックグラウンドの研究者が参集しつつある分野である,ところが本家のロボティクス研究者には,意外となじみの薄い分野でもある.そこで,本誌の読者諸氏に,「分子ロボティクス」の現状に対する大雑把なイメージをもっていただくことを目的としてこの特集を企画した次第である.この特集をきっかけに,何らかの興味を感じていただければ幸いである.
「分子ロボティクス」とは一体何か?「ロボット」の定義にもいろいろあるだろうが,ここでは,「センサ,アクチュエータ,プロセッサにより構成されたシステム」であり,「そのシステムの実体が環境と区別されていて,環境から情報を得,その情報に応じて何らかの判断をした結果,環境に対して働きかけるもの」としてみよう.この定義にならうと,「分子ロボット」とは,「分子センサ」「分子アクチュエータ」「分子プロセッサ」のような「分子デバイス」を「分子構造」を利用して統合したものということになる.それをどうやって作り,どうやって動かすかという方法を研究するのが「分子ロボティクス」である.
分子デバイスは1個,あるいはごく少数個の分子からできていて,分子同士の反応プロセスがそのままセンシングやアクチュエーションや計算になるものである.分子デバイスをつなぐ配線の役目をするのが溶液中を拡散するいろいろな分子である.例えば,環境(ふつうは水溶液)に特定の種類の分子が存在するとき,その分子と結合して反応性を変える分子はセンサになるし,光や電磁波のような外部刺激や,特定の分子との結合によりかたちを変える分子はアクチュエータとして使える.特定の演算過程に対応付けられるような分子反応系を設計すれば,それが分子プロセッサになる.普通のロボットをただ小さくしたら分子ロボットになるというわけではなく,これらの分子デバイスを動作させるための環境をつくり,そのなかでこれらをシステム化し,意図した相互作用をさせてはじめて「分子ロボット」になるわけである.
これまでも分子デバイスの研究は数多く行われているが,「分子ロボット」に手が届かなかったのは,デバイスのシステマチックな構造化が難しかったからである.ところが,最近「DNAナノエンジニアリング」という手法が現れ,システム化への道が布けつつある.本特集の前半は,その解説にあてられている.DNAというと生物の遺伝子を連想するが,ここではDNAはそれ自身にプログラムを書き込むことができる材料として扱われる.すなわち,DNAが二重らせんをなすハイブリダイゼーション反応を利用すると,分子センサ,分子アクチュエータ,分子プロセッサといった多種多様な分子デバイスが作れてしまうのである(川又生吹氏ほか「DNAセンサ,DNAアクチュエータ,DNAロボット」,小宮健氏「分子計算」).また,相補的なDNA配列をのりしろとしてジグソーパズルのように分子のブロックを組み立てたり(村田智ほか「DNAタイル」),長大なDNAを折り畳んで望みの形状を作ったりすることもできる(葛谷明紀氏「DNAオリガミ」).つまり,材料の分子を「混ぜるだけ」でシステムを組み立てることが可能になったのである.こういうと,およそロボット屋とは遠い化学の世界の話と思われるかもしれないが,原理さえ分かれば誰にでも分子が設計できるし,実験もさほど難しくない(田中文昭氏「分子ロボティクス研究のはじめ方」).
本特集の後半では,分子ロボティクスの周辺を紹介する.タンパク質,脂質,高分子など,分子エンジニアリングの対象は拡がっており,これらのシステム化へ向けた取り組みが始まっている.例えば,機能のすぐれたタンパク質モータとDNAの組み合わせという考え方がある(檜山聡氏ほか「分子モータとDNAを用いた分子カプセル配送システム」).また,将来の医療応用を見据えて,生物の細胞と同じ脂質二重膜を利用することも考えられる(野村慎一郎氏ほか「リポソーム/細胞間の分子通信」).脂質二重膜には面白い性質がいろいろあり,それを積極的に利用することもできる(豊田太郎氏「リポソーム型人工細胞のダイナミクス」).高分子のエンジニアリングも進んでおり,分子アクチュエータの自律駆動も可能になってきている(原雄介氏「生体環境下で自励振動する新規自励振動型高分子の創製」).また,MEMSのようなトップダウン技術との融合も検討が進んでいる(平塚祐一氏「モータタンパク質で駆動するマイクロマシン」).これらはすべて将来の応用に向けた練習問題と考えていい.例えば,ミクロの決死圏のように診断と薬物投与を同時に行う分子ロボットや,プログラム幹細胞培養,環境モニタリングや食品トレース,ヘルスモニタリングなど,様々な応用が考えられる.わが国では,分子ロボティクス研究会が中心となって,この分野の確立を目指しており,実は,本特集の執筆者はすべてこの研究会のメンバーである.この場を借りて御礼申し上げる.